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2-4. 坂の上の雲 貸し倉庫 埼玉 瀧田倉庫産業 社長のブログ!
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貸し倉庫 埼玉 瀧田倉庫産業 社長のブログ!
埼玉(越谷市、春日部市、さいたま市岩槻区、八潮市、三郷市、川口市、草加市等)の貸し倉庫などの情報を提供します。埼玉の貸し倉庫からみた経済、経営、不動産について思うことをつづります。瀧田倉庫産業の社長である瀧田貴夫のブログです。
久松五勇士 上陸之地
 「坂の上の雲」を読んだ方なら覚えておりますよね、久松五勇士

 どこから来るかわからないということで日本国中で論争になっていたバルチック艦隊を宮古島の漁民が見つけ、その情報を宮古島の5人の勇士達が大本営、連合艦隊に伝えるべく、石垣島の電信施設までサバニで15時間、陸上を駆け足で5時間かけて行ったというお話しです。
 しかし、電報が届いたときには既に連合艦隊の信濃がバルチック艦隊を見つけており、この5人の勇士達の行動は歴史に埋もれてしまったのです。
 しかも、5人の勇士達は「極秘事項だから誰にも言うな」との厳命を帯びていたため、奥様にもいわない方もいらっしゃったそうで、20年近くこの事実は一般に知られることがなかったということです。
 
 その久松五勇士が石垣島までたどり着き、上陸した記念の碑が写真です。すべり台までついております。なんで(^^;)
hisamatu

 
 宮古島の久松五勇士は観光名所の一つになっているようですが、石垣島の上陸地点はほとんどのガイドに載っておらず、たまたま手に取った地元の冊子で見つけてしまいまいました。

 信濃から連絡を受けた戦艦三笠、秋山真之参謀による『敵艦見ユトノ警報ニ接シ、聯合艦隊ハ直ニ出動、之ヲ撃滅セントス 本日天気晴朗ナレドモ波高シ』は有名ですな。
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坂の上の雲 第八巻
最近は、三国志(吉川英治氏)を読み始めました。まさに群雄割拠。本当にすごい時代ですね。

ところで、坂の上の雲、ラストの8巻のまとめをしておりませんでした。遅くなりました。


<あらすじ>
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坂の上の雲 第七巻
いよいよラスト前。第七巻です。
この巻には戦略家がおかしそうなミスが多く出てきます。
机上の論理と実務との違いなど、勉強になります。

<あらすじ>
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坂の上の雲 第六巻
つひに、第六巻まできました。

黒溝台会戦の突然のロシア軍の退却にはほんとうに驚きます。学生の頃の歴史の授業では、日露戦争は日本が勝ったということぐらいしか学びませんでしたので、このような薄氷の勝利というか、ロシアの自滅的な負けがつづいていたという事実に驚きました。

<あらすじ>
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坂の上の雲 第五巻
あらすじをまとめようと、再度本書を読み直していました。それと同時に、現在、「日米開戦の真実 大川周明著『米英東亜侵略史』を読み解く」を読んだり、また藤原正彦氏の講演会を受けるにあたって「国家の品格」を再読したりしていました。あらためて日本の歴史を考えるきっかけになっております。最近は、日露戦争以後、太平洋戦争あたりのもう少しわかりやすい本でもあればなあと思っているところです。

<あらすじ>
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坂の上の雲 第四巻
第四巻では、旅順での無益の攻撃がさらに激しくなります。またバルチック艦隊がロシアを出港し、苦難の道のりがはじまります。短くまとめようと思いましたが、またまた長くなってしまいました。

<あらすじ>

陸軍は海軍の要請もあり、旅順港に逃げ込んだロシア艦隊に対応するため、陸軍は旅順を攻略する必要が出てきた。しかし、日本はこの旅順要塞の攻略を甘く見ていた。
「たかが野砲程度の砲弾で要塞をくずせるとおもっていたのは、おそるべき認識不足であったであろう。」

一方海軍は、旅順港を封鎖していたが、突然ウラジオストックへ逃げはじめたロシア艦隊を運命の一弾がとらえ、ロシア艦隊の旗艦であるツェザレウィッチの司令塔付近に命中し、司令官ウィトゲフト以下の幕僚をこなごなに吹き飛ばし、さらに操舵員が舵にのしかかったまま絶命したため、艦隊運動に大混乱が生じ、結局、ロシア艦隊は一艦たりともウラジオストックへたどりつけなかった。

日本軍は最初の日露両軍の大会戦である遼陽会戦を砲弾の欠乏によって容易におこなうことが出来なかった。
「日本陸軍は『砲一門につき五十発(一ヶ月単位)でいいだろう』という驚嘆すべき計画をたてた。一日で消費すべき弾量だった。このおよそ近代戦についての想像力に欠けた計画をたてたのは、陸軍省の砲兵課長であった。日本人の通弊である専門家畏敬主義もしくは官僚制度のたてまえから、この案に対し、上司は信頼した。次官もその案に習慣的に判を押し、大臣も同様だった。それが正式の陸軍省案になり、それを大本営が鵜のみにした。その結果、ぼう大な血の量がながれたが、官僚制度のふしぎさで、戦後たれひとりそれによる責任をとった者はいない。
黒木軍が太子河を渡り、ロシア軍総司令官のクロパトキンが黒木軍へ大兵力を集中することとなり、他の戦線のロシア軍将士の士気ががさがり、高級司令部への不信感がつのった。そして、ロシアは戦略的に退却することとなった。

このころ、ロシアにて迫害されていたユダヤ人が日本を応援したりもし、また日本はロシア内外の不満分子を扇動して帝政を倒さしめるべく大諜報をおこなった。

東郷の艦隊は、陸軍が旅順の要塞を落とさないために、旅順港の港外に釘付けにされていた。このため陸上から攻めてもらわねばならなかった。そのためには、203高地を取り、陸軍砲をもって港内の艦隊を沈めてもらうだけでよかった。しかし、乃木軍はこの要塞をすっかり退治してしまおうと、正面から無益な攻撃を続けていた。
「-機関銃とういうものをロシアはもっている。
 ということを乃木軍の高等司令部は後方にあって知識として知りつつも、幕僚がみずから最前線へ出てその威力をその目で見ることを怠った。作戦者というものは敵に新兵器が出現した場合、みずから身を挺して前線へゆき、その猛威下でその実態を体験しなければ、作戦は机上のプランになるおそれがある。
「ついでながら、陸軍大学校を出ているといったところでたしかに戦がわかるものではない。将領や作戦家といった軍人は才能の世界に属しているもので、画家や彫刻家が一定の教育をほどこしたところでできあがるものではないという点で同じであった。」
「旅順攻撃は、維新後近代化をいそいだ日本人にとって、はじめて「近代」というもののおそろしさに接した最初の体験であったかもしれない。要塞そのものが「近代」を象徴していた。それを知ることを、日本人は血であがなった。」

戦闘が惨烈になり、全戦線が敗色で崩れたつとき、味方を大崩壊からなんとか食いとめる唯一の道は、総大将の器量にあることは古今東西かわらない。それには、全軍からいわば軍神のような信望を得ている人物であることが必要であった。それが、山のように動かず、将士に前途の希望をもたせつつ鼓舞し、あくまでも沈着豪胆に適切な指揮機能をはたしていく人物がのぞましい。」

遼陽会戦を何とか勝ちへ持ち込んだ児玉軍は今度は、沙河でロシア軍より攻勢に出られた。ロシア軍のクロパトキン司令官の退却癖により、ロシア軍は退却し、沙河でしばらくのあいだ対陣することとなった。これまで日本陸軍はロシア軍に対し、開戦後、一度も壊滅的打撃をあたえていない。

ロシア本国では、ロジェストウェンスキー率いるバルチック艦隊は日本を目指して出港した。しかし、出港当初から、臆病風に吹かれた艦隊は、英国漁船を日本艦隊と見間違え襲撃してしまった。その結果、世界の大英帝国を敵にまわし、さらにその長い道のりは苦難に満ちたものとなった。
「かれはこれだけの大艦隊の長官になる資格はなかった。もしかれ一個とはべつにこの妄想がかれの艦隊に蔓延していたにせよ、それを鎮静させるのが統帥というものであった。」

旅順要塞においては、陸戦の死闘がつづいていた。多数の兵がロシア軍の要塞砲によって殺されるというよりも、無益な作戦により殺されるべくして殺されていった。乃木軍は、中途半端に二〇三高地を攻撃し、ロシア人に智恵をつけてしまい、以後、二〇三高地は要塞化された。
「同司令部はおどろくべきことに、二〇三高地が以前と一変して大要塞になっているということを知らなかった。ろくに偵察もしていなかったのである。情報の過少な司令部のもとでその鉄壁に向かわされる第七師団ほど不幸な師団はなかった。
「この不幸な白襷隊戦法の着想ほど、乃木軍司令部の作戦能力の貧困さをあらわしたものはなかった。戦術上、これを突撃縦隊という。本来、突撃縦隊は奇襲のために用いられるべきもので、敵の搦手を不意につくという用兵のために存在する。ところが乃木軍司令部はこれを正面攻撃に用いたのである。」


<コメント>
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坂の上の雲 第三巻
第三巻では、ついに日露の戦いが始まります。

<あらすじ>

秋山真之は、海軍大学校にて戦術講義を行うようになった。
「そのほか、真之の戦法には古来の戦法から得ているものが多い。」
「水軍戦法に、『舟を攻めずして、人心を攻む』というのがある。真之はこれに大いに感銘し、『孫子』のいわゆる戦わずして敵を屈するは善の善であるということと合致しているとして、かれの軍学の基本思想の一つになった。」
「『あらゆる戦術書を読み、万巻の戦史を読めば、諸原理、諸原則はおのずからひきだされてくる。みなが個々に自分の戦術をうちたてよ。戦術は借りものではいざというときに応用がきかない。』」

しだいに日露の衝突は避けられないものとなっていった。
「どちらがおこしたか、という設問はあまり科学的でなはい。しかし強いてこの戦争の戦争責任を四捨五入してきめるとすれば、ロシアが八分、日本が二分である。そのロシアの八分のうちほとんどはニコライ2世が負う。この皇帝の性格、判断力が、この大きなわざわいをまねいた責任を負わなければならない。」

日本は国民所得がおどろくべきほど低いなか、戦争準備の大予算を組み立てた。
「ひとつは、日本人は貧困になれていた。この当時、こどもは都会地の一部をのぞいては靴をはく習慣もない。手製のわら草履かはだしであり、雪国の冬のはきものはわら靴で、これも手製である。こどもだけでなく、田舎ではおとなもほぼそうであった。食物は、米と麦とあわ、ひえで、副食物のまずしさは、話にならない。その上、封建的な律義さがまだつづいており、ひとびとは自分の欲望の主張をできるだけひかえめにすることを美徳としており、個我の尊重というような思想は、わずかに東京の一部のサロンで論じられている程度である。 」

世論がロシアを憎んだとしても、政府としてもどうしようもなかった。
「『おおかたの名論卓説をきいてもしようがない。私は大砲と軍艦に相談しているのだ』」

山本権兵衛が明治海軍を作っていった。
「明治海軍のおもしろさは、山本権兵衛が一大佐か少将の身で大改革をやりえたということである。」
「薩摩的将帥というのは、右の三人に共通しているように、おなじじ方法を用いる。まず、自分の実務のいっさいをまかせるすぐれた実務家をさがす。それについては、出来るだけ自分の感情と利害をおさえて選択する。あとはその実務家のやりいいようにひろい場をつくってやり、なにもかもまかせきってしまう。ただ、場をつくる政略だけを担当し、もし実務家が失敗すればさっさと腹を切るという覚悟をきめこむ。かれら3人と同じ鹿児島城下の加治屋町の出身の東郷平八郎も、そういう薩摩風のやりかたであった。」
「日清戦争の前、権兵衛がやった最大のしごとは、海軍省の老朽、無能幹部の大量首切りだった。」

そのころ、ロシアは日本を完全に見下していた。
「このようなロシア軍人の観察能力は、かれらの頭脳のどこから出てきたのであろうか。どの国の軍人でも、軍人というのは既成概念のとりこであるというのは、ロシアおいても例外ではないらしい。」

連合艦隊の総司令官には東郷平八郎が選ばれた。
「真之はこの人物をひと目みて、(これは徳のある人物だ)と、おもった。いざ連合艦隊という大軍が組織されるばあい、これを統御する人物はよほど徳望のある人物でなければならない。」

「十九世紀からこの時代にかけて、世界の国家や地域は、他国の植民地になるか、それがいやならば産業を興して軍事力をもち、帝国主義国の仲間入りするか、その二通りの道しかなかった。」
「筆者は太平洋戦争の開戦へいたる日本の政治的指導層の愚劣さをいささかでもゆるす気にはなれないのだが、それにしても東京裁判においてインド代表の判事パル氏がいったように、アメリカ人があそこまで日本を締めあげ、窮地においこんでしまえば、武器なき小国といえども起ちあがったであろうといった言葉は、歴史に対するふかい英智と洞察力がこめられているとおもっている。アメリカのこの時期のむごさは、たとえ相手が日本でなく、ヨーロッパのどこかの白人国家であったとすれば、その外交政略はたとえおなじでも、嗜虐的(サディスティック)なにおいだけはなかったにちがいない。一九四五年八月六日、広島に原爆が投下された。もし日本とおなじ条件の国がヨーロッパにあったとして、そして原爆投下がアメリカの戦略にとって必要であったとしてもなお、ヨーロッパの白人国家の都市におとすことはためらわれたであろう。」
「日露戦争というのは、世界史的な帝国主義時代の一現象であることにはまちがいない。が、その現象のなかで、日本側の立場は、追いつめられた者が、生きる力のぎりぎりのものをふりしぼろうとした防衛戦であったこともまぎれもない。」

すぐれた戦略戦術というのものはいわば算術程度のもので、素人が十分に理解できるような簡明さをもっている。逆にいえば玄人だけに理解できるような哲学じみた晦渋な戦略戦術はまれにしか存在しないし、まれに存在しえても、それは敗北側のそれでしかない。たとえていえば、太平洋戦争を指導した日本陸軍の首脳部の戦略戦術思想がそれであろう。戦術の基本である算術性をうしない、世界史上まれにみる哲学性と神秘性を多分にもたせたもので、多分というよりはむしろ、欠如している算術性の代替要素として哲学性をいれた。戦略的基盤や経済的基礎のうらづけのない『必勝の信念』の鼓吹や、『神州不滅』思想の宣伝、それに自殺戦術の讃美とその固定化という信じがたいほどの神秘哲学が、軍服をきた戦争指導者たちの基礎思想のようになってしまっていた。」

明治三十七年二月五日午後七時十五分、開戦の命令が下された。
『わが連合艦隊は、ただちにこれより黄海にすすみ、旅順口および仁川港にある敵の艦隊を撃滅せんとす』

海軍につづき、陸軍も上陸し、戦闘が始まった。たった一日の戦いで、日清戦争で消費した全砲弾量を少し越えるほどの砲弾使用となった。
「『わが軍はなるほど疲れきっている。しかし敵もおそらくおなじにちがいない。いま一度、攻撃をおこし、今度は敵の弱点に対し、わが歩兵砲兵の総力をあげて集中攻撃することによってまず一角をやぶり、それを敵の全線にひろげてゆけばどうか』」
「これが、日露騎兵の第一戦なのだ。つねに最初の戦いが大事であり、ここで負ければ日本騎兵の士気に影響し、わるくゆけば負け癖がついてしまうかもしれない。ここで退却すればロシア騎兵に自信をつけさせ、今後の戦闘でかれらはいよいよ強くなるだろう」
秋山好古は不貞寝をきめこみ、その旅団は危機を脱した。
「戦場での司令官はあまり鋭敏であってもいけない。反応が鋭敏すぎると、かえって事をあやまる。こういう極所には、わざと鈍感になるしかなかった。」

ロシアの旅順艦隊はスタルクからマカロフに引き継がれ、別な軍隊となった。
名将というのは、士気を一変させて集団の奇蹟をとげる者をいうのであろう。海軍中将マカロフが、まさにそうであった。」
「そのような方針やら戦略戦術なりは、ふつう水兵に無関係なものとして知らされることがない。とくにロシア軍隊においてはそうであった。ところがマカロフの統率法は、水兵のはしばしに至るまで自分がなにをしているかを知らしめ、なにをすべきかを悟らしめ、全員に戦略目的を理解させたうえで戦意を盛りあげるというやりかたであった。19世紀が終わったばかりのこの時代、マカロフがやったこのことはきわめて斬新であった。」

しかし、突如あらわれた日本の巡洋艦隊に挑戦をうけたため、マカロフの戦艦ペロトパウロウスクが日本側の仕掛けた機雷にかかり、大爆発をして沈没した。
「かれは出港にあたっての重大な習慣をわすれた、ということであった。港口の掃海をしなかったのである」

日本側も、敵が機雷戦術を仕掛けるであろうという単純なことを想像できず、また味方同士の衝突事故などもおこり、敵の砲火をうけることなしに日本艦隊は八隻を失った。
「東郷はこの戦争の全海戦を通じ、きわめて幸運な男とされていたが、かれの驚嘆すべきところは、不運に対して強靱な神経をもっているということであった。」
東郷は頭脳ではなく、心でこの艦隊を統御しているようであった。

<コメント>
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坂の上の雲 第二巻
相変わらず「坂の上の雲」を読んでおります。現在、最終巻の第八巻まできています。寝不足と戦いながらむさぼり読んでいます。なんと、来年のNHKの大河ドラマは本書が原作になるようですね。

<第二巻>

当時の日本は西洋を真似て西洋の力を身につけねば、中国同様の某国寸前の状態になりそうだった。日本のこのおのれの過去をかなぐりすてたすさまじいばかりの西洋化には、日本帝国の存亡が賭けられていた。

そして、日清戦争へと突入していく。
「勝利の最大の因は、日本軍のほうにない。このころの中国人が、その国家のために死ぬという観念を、ほとんど持っていなかったためである。」
「要するに日清戦争は、老朽しきった秩序(清国)と、新生したばかりの秩序(日本)とのあいだにおこなわれた大規模な実験というような性格を持っていた。」
「『最初から清国兵はなげやりだったようにおもえる。かれらの国の政権は満州人種がにぎっており、皇帝もむろんそうだ。異民族であるその皇帝とその政府のために死ぬという気持ちが、漢人将士にすればおこそうにもおこしようがないというのが正直なところだっただろう。しかしながら日本人は清国そのものを押し倒したのだと錯覚している』」
「『つまりいえば、日本が勝った一面の原因はかれら漢人将士がつくったのだ』」

日清戦争後、秋山真之はアメリカで戦略と戦術の研究をすることとなった。
「『人間の頭に上下などはない。要点をつかむという能力と、不要不急のものはきりすてるという大胆さだけが問題だ。』と言い、それをさらに説明して、『従って物事ができる、できぬというのは頭ではなく、性格だ』ともいった。真之のいう要点把握術は、永年の鍛錬が必要らしい。」

この一九世紀末は、地球は列強の陰謀と戦争の舞台でしかなかった。そしてロシア皇帝は、極東進出の野望を進めていた。

坂の上の雲〈2〉
坂の上の雲〈2〉司馬 遼太郎

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stars子規に死期が迫っています。
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埼玉県越谷市を中心に、草加市、三郷市、八潮市、吉川市、さいたま市、岩槻区、川口市、春日部市など、埼玉県東部の貸し倉庫、貸工場、貸店舗など事業用不動産のテナント誘致、プロパティマネジメント(賃貸管理)、コンバージョン、バリューアップ、不動産仲介などを行っている埼玉の貸し倉庫 瀧田倉庫産業株式会社にて代表取締役を務めております。

所有資格:中小企業診断士、宅地建物取引主任者、ファイナンシャル・プランナーなど



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